養玉院の歴史
養玉院は金光山養玉院大覚寺といい、その創建は 、古くは平安時代まで遡るとされるが、明確な史料はのこされていない。
「江戸名所図会」 や「寺社書上」によれば、養玉院は、 もとは三貌院 (さんみゃくいん)「その後、三明院」という寺院であった。慶長年間(1596一1615) に江戸幕府の開府と江戸城周辺の都市計画工事に よって移転するまでは、大手(千代田区 大手町
の辺りに位置していたといい 比叡山や日光山を復興し徳川将軍家か 三貌院の移転先は上野山内であったと伝えられる。
移転後は寛永寺の創建、比叡山や日光山を復興し徳川将軍家から厚い信任を得ていた天海(1536 一1643) を開基とし、第一世に天海が弟 子として引き取った賢海(1612 一1644、涅槃宗の開祖 ・及意上人空源(1563 - 1619 の次男)を迎えて天台宗 三明院流としてはじまった。
二世念海の代に対馬藩主宗家の菩提寺となった三明院は、対馬藩二代藩主宗義成の室・お福の方(日野夫人)の遺 言により、寛文3 年(1663) にその戒名をとって「養玉院」と改称した。 元禄11 年(1698)に南鍋町(京橋鍋町)から出火した火災により、養玉院は被災する。
この時大手から上野山 内に移転後、寛永寺の中堂建設のために屏風坂下に移っていたが、この火災によりさらに坂本へ移転し た。本尊をは じめ、主要な宝物は幸いにも焼失を免れ、宗家の菩提寺とあって再建も早急に完了した。文政9 年(1826)の「寺社書上」によれば、総坪数1,346 坪の寺地を構えていた。
また養玉院にはもと涅槃宗徒の檀家が40 数戸あった。檀家の人々は及意上人の信徒で、三明院が賢海を一世とし てはじまった際に三明院の檀家となった。その職種は様々で、屋根、大工、指物師などがいた。遊女の高尾太夫(三浦屋)も 檀家の一人であった。