境内案内
養玉院如来寺住職
養玉院如来寺
第二十六世
大僧正 庸逹
養玉院 全景
無量光殿の屋上にある阿弥陀堂
昭和五十六年五月建立
当山開創三百五十年の記念として建立された。養玉院創立当初の本尊である、阿弥陀如来を安置する。
木造阿弥陀如来立像
平安時代末期作 現在は、無量光殿に安置されるが、遠く平氏の壇ノ浦での滅亡に際し対馬に流れつき、対馬宗家の護持するところとなったという。その後、養玉院に施入された。(品川区有形文化財彫刻5号)
無量光殿 内部
木造五智如来坐像
寛永十二年(1635)入仏如来寺創立と同時に、本尊として木喰但唱が造立したものだが、薬師如来を除いてのち火災で焼失し、他の四体は延享三年(1746)頃の再興である。「おおぼとけ」の通称は、五智如来像に由来する。もっとも大きい中尊大日如来で像高が3.21メートル。
(品川区有形文化財彫刻七号)
如来堂
宝暦十年(1760)建立 当初寛永年間(一六二四−四四)、如来寺の本堂として建立されたが現在のお堂は宝暦十年の再建。明治末の移転に際して現場に縮小された。『江戸名所図絵』巻一には、桁行七間梁行5間の重曹のお堂として描かれている。
本 堂
寛永五年(1628)頃建立
養玉院の本堂であったが、大正12年下谷坂本から移築したものである。もと瓦葺であったが、現在は銅板葺で、昭和六十二年度再度葺替えられた。
山 門
平成元年に落慶しました
明王堂
平成十年新築
本堂外陣
大正十五年に上野下谷より移築
萬霊塔
大正十二年に落慶、平成十九年に改装
宗家墓所
対馬厳原の藩主宗対馬守
宗氏(そうし、むねし)は、日本の氏族のひとつ。中世から近世にかけて対馬国を支配した守護・戦国大名・近世大名の氏族。秦氏の末裔惟宗氏の支族だが、室町時代中期頃より平知盛を祖とする桓武平氏を名乗るようになった。
植村家墓所
植村家保は天保8年(1837年)7月1日、近江膳所藩主・本多康禎の七男として生まれる。嘉永6年(1853年)に高取藩の第12代藩主・植村家興が急死したため、その末期養子となって家督を継ぎ、第13代藩主となる
仁王像 金剛力士
金剛力士(こんごうりきし)は、仏教の護法善神(守護神)である天部の一つ。サンスクリットではVajradhara(ヴァジュラダラ)と言い、「金剛杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる武器)を持つもの」を意味する。開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。一般には仁王(におう、二王)の名で親しまれている。
怖い表情の中でとても優しさも感じられる所があります、そこを探し、見つけてみてください。
龍神観音
救いを求める相手によって様々な姿に変えて、大慈悲と智慧で人々の苦しみを取り除き、さらに幸運をもたらすといいう観音様です。 古来より、観音菩薩が「富貴吉祥」のシンボルである龍神に乗り、人々を救いに来るお姿の事を龍神観音を呼び、愛情・財産・出世の運を呼び込み開運に導いてくれるといわれています。 威厳あふれる様で、忍び寄る悪災をことごとく追い祓うとして神仏の化身として崇められ、厄除け、開運の力をもっています。 観音様が龍神に乗り、水瓶から無尽蔵に水を湧き出させて、流れる水が人々の煩悩を洗い流し、人々に希望と御利益をもたらします。 波が生み出したそのお姿は後光に包まれ慈愛に満ちた美しい御尊顔、優雅にたなびく天衣、これこそ全ての人々を万能の知恵と慈悲で救う龍神観音なのです。 悪運を建(辰)ち開運を招く龍神と、あらゆる願いを叶えてくださるとされる観音様の霊力が一体となり、絶大な守護開運力を持っています。
座聖観音
『正観音』ともいい、六観音の一尊でもある。観音菩薩(観世音菩薩、観自在菩薩)像には、さまざまな形態のものがあるが、このうち、多面多臂などの超人間的な姿ではない、1面2臂の像を指して聖観音と称している。正観音と書くこともある。大慈の観音として、六観音の役割では地獄道を化益するという。もともとは「正法妙如来(しょうほうみょうにょらい)」という仏であったが、衆生の救済のため人間界に近い菩薩の身となった。
布袋尊
布袋(ほてい)は、唐末の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な仏僧。水墨画の好画題とされ、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれる。日本では七福神の一柱として信仰されている。
本来の名は釈契此(しゃくかいし)であるが、常に袋を背負っていたことから布袋という俗称がつけられた。四明県の出身という説もあるが、出身地も俗姓も不明である。図像に描かれるような太鼓腹の姿で、寺に住む訳でもなく、処処を泊まり歩いたという。また、そのトレードマークである大きな袋を常に背負っており、生臭ものであっても構わず施しを受け、その幾らかを袋に入れていたという。なお、布袋が背負っているこの袋は堪忍袋ともいわれる。
無外流
(むがいりゅう)は、延宝8年(1680年)に辻月丹により開かれた剣術の流派である。
新選組三番隊組長であった斎藤一が無外流の使い手であったという説がある。また明治から昭和初期の剣道家で「警視庁の三郎三傑」と言われた高野佐三郎、高橋赳太郎、川崎善三郎のうち、高橋、川崎は無外流の遣い手(高橋は姫路藩の無外流高橋派、川崎は土佐藩の無外流土方派)であり、ともに大日本帝国剣道形制定委員を務めた。
薄雲の碁盤
大火をくぐり抜けて人の手から手に渡り、この碁盤は深川六間掘の質屋・柘榴伊勢屋の蔵に落ち着いた。血腥いことばかり起きた文久三年の十一月、本所竪川通りの旗本の門前に、女の生首が碁盤に乗せて晒してあるのが見つかる。そして、その碁盤が薄雲の碁盤であることがわかる。
吉原の三浦屋は養玉院の檀家であったそうで、その縁故で高尾の碁盤と将棋盤を納めたと云うことになっています。(養玉院蔵)