お寺の歴史
養玉院の歴史
養玉院は金光山養玉院大覚寺といい、その創建は 、古くは平安時代まで遡るとされるが、明確な史料はのこされていない。 「江戸名所図会」 や「寺社書上」によれば、養玉院は、 もとは三貌院 (さんみゃくいん)「その後、三明院」という寺院であった。慶長年間(1596一1615) に江戸幕府の開府
如来寺の歴史
如来寺は、 帰命山如来寺大日院といい、寛永13年(163の3月19 日に木食但唱(1579 一1641)により 弟 子達と共に造った五智如来像を安置して開かれた。 建立地は、泉岳寺に近い高輪(港区高輪)の、東海道沿いで人の 往来が多くにぎやかな地で、 海に面した好立地であった。
養玉院如来寺の今
養玉院如来寺は、昭和17年(1942) に宗教法人法の制定により、公称名を「養玉院」とした。その後、太平洋戦争が勃発し、東京は空襲に遭った。養玉院も庫裡や所化寮 (旧如来寺庫裡)焼夷弾を受けて全焼、境内の外柵が 外されて避難用の防空壕が掘り起こされるなどし、とても悲惨な状況であったという。
明治四十四年四月 撮影
喜多院
星岳保勝会
発起人・渋沢栄一の挨拶
渋沢栄一は、当日の挨拶の中で喜多院護持の保勝会を立ち上げた理由
に、檀家である上野寛永寺と喜多院のつながりを挙げています。
喜多院の遠賀僧正が寛永寺にいた人で旧知であったこと、どちらも徳川家康に
仕えた天海ゆかりの寺院であること。
寛永寺の本堂は上野戦争で焼失し、現在の本堂は川越の喜多院から
移築したものであることなど。
そして栄一は「欧州でも東洋においても、ある土地に行った際にはその土
地の公共物をみれば、繁盛、風俗、人情、貧富などがわかるものであり、
古刹の退廃を免れるようにすることは、広く国家社会に貢献することである」
と述べ、広く寄付を集めたいと呼びかけています。
◆第59世喜多院住職 塩入秀知さん
「明治時代になると幕府の庇護がなくなり、廃仏毀釈政策のため喜多院は困難な時代を迎えます。
五百羅漢さまのお首を落とされたり、寺領も縮小されました。
星岳保勝会を作られた遠賀住職は、多宝塔を移し、渡り廊下を作るなど景観保持をすすめられました。
幕末から戦前までは約10年間で住職が異動していましたが、昭和20年に私の祖父が浅草寺から転任して以来、
私で三代喜多院の住職としてお仕えしております。
歴代の住職たちは、喜多院をお預かりし、大切に次世代に引き継いでいくという役割があります。
現在も境内の整備は続いております。」
国の文化財保護がまだ不十分だった明治時代、星岳保勝会は大きな役割を果たしたのではないでしょうか。
栄一は、その土地の誇りとして地域の人が歴史資産に、広く関心を持つことを訴えています。
参考資料
「早稲田学報第196号 「城下町川越の今昔』松本茂雄 『川越の人物誌第2集』
明治38年3月21日
教示章 天台宗布教の方向性を明治政府に提示したもので、それは前代までの天台宗のありかたを転換し新しい時代に対応しようとした。
「教示章要解」を刊行し宗内にこれを配布した「桜木谷慈薫校閲 遠賀亮中述」とし、明治38年5月16日に発刊された。
(桜木谷慈薫喜多院住職 天台座主から国師の号をおくられた円乗房 裸堂)